横塚晃一は、自己の内側にある〈健全者幻想〉からの解放を求めて、彼ら脳性マヒ者の身体をどこまでも肯定してくれるもうひとつの文化の創造を提唱した。それは、主流社会への参入のために、福祉や医療や教育の拡大を求めてきたそれまでの障害者運動とは、一線を画する新しい課題と戦略の提示であった。しかし、それまで自明視されてきたものに異議申し立てを行うというその思想は、対抗自体の自己目的化という転倒を帰結してしまった。このことの背後には、長らく過酷な抑圧状況にあった彼ら/彼女らが、文化のコアとなる充分な共同性を育む機会をもちえなかったという事情が関与している。しかも、当時盛り上がりをみせていた対抗運動の熱気は、彼ら/彼女らが対抗的で急進的なパトスに身をゆだねることを大いに促進したことだろう。もしかしたら、そうしたものに身をまかせることによって、彼ら/彼女らは、そこに一瞬の快楽を見い出したのかもしれない。私は、このこと自体が無意味であるとは考えない。彼ら/彼女らにとって、それは新しい世界の発見だったかもしれない。けれども、そうした快楽は決して持続的なものとはなりえない。新しい世界は、いつしか見慣れた世界になってしまう。現に、社会を覆っていたラディカルな運動の波がひくとともに、青い芝の運動もまた、その求心力を失っていったのである。
横塚らの轍を踏むことなく、なおかつ、彼らの提起した問いとむきあっていくためにはどうすればいいのだろう。私は、障害の固有文化という視点からのアプローチにその可能性をさぐりたいと思う。ろう文化や盲文化の研究は、そのためのひとつの鍵となるだろう。ろう文化や盲文化とて、マイノリティ文化のひとつである限り、自律と対抗がせめぎあう局面を幾度となく経験してきたはずである。そうした経験から学ぶことで、横塚が積み残した課題に答えていくことができるかもしれない。
倉本智明「未完の〈障害者文化〉」 (via nakano)